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広さは周囲の堀を含めて東西約200m・南北約190m

広さは周囲の堀を含めて東西約200m・南北約190m、面積は約1.4万坪(約4.6万?)と推定される。外濠、内濠、空濠に囲まれた三重構造で、中世式の武家館であるが、東曲輪・中曲輪からなる規格的な主郭部、西曲輪、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪(梅翁曲輪は武田氏滅亡後に作られている。)等から構成され、甲州流築城術の特徴の良く現れた虎口や空堀、馬出しなどの防御施設を配した構造になっている。内郭は石積みで仕切られており、東曲輪で政務が行われ、中曲輪は当主の日常の居住空間、西曲輪は家族の住居があったと考えられている。武田氏から徳川氏、浅野氏の支配の期間を通じて、主郭部に曲輪を増設する形で改修が行われた。『甲陽軍鑑』では晴信の持仏を納めた毘沙門堂関する記事がみられ、連歌会や歌会が催される会所であったという。『高白斎記』によれば1543年(天文12年)には館の一部を焼失したが、再建されている。

現在、跡地は1919年(大正8年)に創建された武田神社の境内にあたるが、このときに南面の主殿の規模が縮小されている。また武田神社の本殿を立てる際には南の石垣を崩し、正門を新たに作った。このときに三重構造の原型の大半が崩されてしまったが、その後の1940年(昭和15年)に国の史跡に指定されている。遺構として土塁、堀、石垣、虎口などがあり、陶磁器などの出土遺物も確認されたほか、神社の近くには往時のままの場所にあると伝えられている井戸が二箇所存在する。そのうち「姫の井戸」と呼ばれる井戸は、信玄の子息誕生の際に産湯に使用されたと伝えられている。なお、信玄の時代の通用門は現在の神社東側にあり、内堀によって道と隔てられていた。

武田城下町は館を機軸に二町間隔で5本の南北基幹街路が設定され、京風町並を意識していたことが指摘されている。考古学的には城下町整備当初から設定されていたかは不明であるが、文献史料では高野山成慶院「甲斐国供養帳」や二次史料において街路の地名が見られる。
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居館の建設と平行して城下町建設や新たな寺社創建、市場開設など府中整備が行われ、城下町の北面には家臣団屋敷地が整備され、南面には商職人町が整備された。城下町南端の一条小山(後に甲府城が築城される)には鎌倉期に創建された一蓮寺の門前町があり、愛宕山を隔てた北原扇状地にも戦国期に信濃から移転された甲斐善光寺の門前町が発達した。また、東西の出入口武には三日市場や八日市場などの市場が開設され、城下町と外部の境界にあたる上木戸には刑場があり、蓮台場には共同墓地、少し離れた堺町には牢屋もあった。城下町はこれらの空間的に独立した町場も包摂した。

外縁には詰城として城砦群が発達し、館の北部には要害山城(積翠寺城)や湯村山城、南の一条小山(のちに甲府城が築かれる)にも山城や砦が築かれ、居館と詰城、支城による府中防衛体制を整えた。

2006年(平成18年)4月6日、「武田氏館」として日本100名城(24番)に選定される。2007年(平成19年)6月からは全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

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2009年06月06日 07:59に投稿されたエントリーのページです。

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