総司令部の最大の目標は、世界の脅威となる日本の軍事力を解体することであり、軍国主義を廃した民主的な国家を作ることにあった。マッカーサーはこれを『上からの革命』と称した。また、マッカーサーは後に、「当初は日本を工業国から農業小国に転換し、アメリカの市場とするつもりだった」と述べている[要出典]。 俳優の小泉博は大卒後NHKのアナウンサーに応募したきっかけとして、このGHQによる「農業国化方針」で将来に不安を感じたことがあったと述べていて、当時の日本人のよく知るものではあったようである。 民主化や農地改革、財閥解体などは、戦前に北一輝が発表していた「日本改造法案大綱」との類似点・共通点が多く見られる。当初GHQの主導権を握っていた幕僚部民政局により策定・実施が進められた。冷戦の兆しが現れ始めてからは、参謀部第2部(G2)に主導権が移り、いわゆるレッドパージなどが行われる。
連合国軍は占領直後から、日本の戦争指導者の検挙に取り掛かかり、東條英機元首相を含む数十名を逮捕した。彼等はいわゆるA級戦犯として極東国際軍事法廷(東京裁判)により判決を言い渡され、東條以下7名を絞首刑による処刑、多数を禁固刑などに処した。平和条約により日本は、裁判自体は受諾しないもののその判決は受諾した。
軍人ほか、戦時中に軍に協力的であったと認定された政治家、思想家など個人20万人がこれを理由に職を解かれて公職追放され、思想面での統制が行われた。また、戦争犯罪人や大政翼賛会に関与していたと見なされた者は、政府機関の職に就くことを禁止された。戦意高揚映画を製作した東宝など、映画界にもこれは及んだ。
総司令部が政策として最初に行ったことは検閲である。1945年(昭和20年)9月に発した「プレスコード」によって、軍国主義的なもの、戦前・戦中の日本を肯定するもの、連合国軍の行為を批判するもの、原子爆弾や無差別空襲の被害について知らせるものなどについて、ラジオ・新聞・雑誌他、一般市民発行の本に至るまで厳しく取り締まり[5]、情報を統制した。プレスコード通達直前には「言論及び新聞の自由に関する覚書」(SCAPIN-16) を発し、言論の自由の制限は最小限度に止める、GHQ及び連合国批判にならずまた世界の平和愛好的なるものは奨励とされたが、これに違反したとして朝日新聞社は二日間の業務停止命令を受けた。
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また、江藤淳は新聞とニュース番組を通じて日本軍の戦時中の非道を繰り返し報道させ、国民の戦意を全く喪失させると共に、国民の贖罪意識を増幅させる厭戦工作(「戦争への罪悪感に関するプログラム」(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の存在を著書に著している。
日本国民に対しアメリカ文化の浸透を図るべく、ハリウッド映画の統括配給窓口会社『CMPE(セントラル・モーション・ピクチャー・エクスチェンジ)』を東京に設立した。このCMPEに一時在籍した淀川長治によれば、「忘れもしないメイヤーという名の支配人は映画より国策に心を砕く、あたかもマッカーサー気取りの中年男だった」そうで、ヨーロッパ映画びいきの記者を試写から締め出したりの傲岸不遜振りに、1952年(昭和27年)にこの会社が解体された際は映画関係者たちは喝采を挙げたという。
一方で国産映画は、終戦後の焼け野原や進駐軍による支配を示す情景を撮影することが禁じられたため、長い間街頭ロケすらできない状態に置かれた。
子供達の文化媒体であった紙芝居では、「黄金バット」の「髑髏怪人」というキャラクターを、「スーパーマン」のような「たくましい金髪碧眼の白人キャラクター」に一時期変更させている。しかしこれは全く支持されることなく無視された。